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インタビュー(前編からのつづき)
サウナって本来気持ちいいものでしょ
ーー 今までは熱波道(※スーパー銭湯「おふろの国」が運営する団体)に加盟している施設が最優先でしたもんね。今後はそれも変わってくるのでしょうか?
そうですね、以前は僕がおふろの国の社員だったのでそれが当然のことでした。でも今はその制約がなくなったので、スケジュールと条件が合えば熱波道関係なくどこからでもオファーをお受けしています。
熱波道としての活動を経て、一部の界隈では僕の名前である程度やっていけるようにはなりましたが、僕はもっと広い世界に出ていきたいんです。そのためにもより多くの施設からオファーを受けられるようにしたいですね。
ーー そうなると、熱波道における井上さんの立ち位置も変わってきますか?
必然的にそうなりますね。今までは運営会社の社員として熱波道を一緒に作ってきましたし、それを加盟店やお客さんに広める活動もしていました。
独立した今は、オファーを受けて熱波道にゲスト出演し、熱波師検定の講師をしているという立場です。
なのでこれからは、井上勝正個人としての意見を発信していきます。少なくとも、僕がこれから伝えていきたいことは「○○道」と名付けられるような道を極めるようなことではありません。
僕がいま一番伝えたいことはシンプルで、「サウナって本来気持ちいいものでしょ」ということです。ただそれだけです。
最近ではサウナ室が何度以上が良いとか、ととのうために何分入らなければならないなどサウナが数値化されて語られがちですが、そもそもは「気持ちいいサウナに入りたい」という渇望こそが原点だと思うんです。
僕の熱波ではただ「サウナって気持ちいいよね」という想いをお客さんと共有したいだけなんです。ただそれだけのことなので、それは「道」ではないんです。もし誰かに理由を問われても「だってそうじゃない?」と答えるだけです。
僕はサウナが好きな人たちと一緒にサウナに入っていたいのです。無理に僕についてこさせようとも思いません。ただ分かり合える方々と分かち合うひとときを過ごしたいんです。
ーー 井上さんはサウナについて常に考え続けていますが、最近はどんなことをお考えなんですか?
僕は思うんですけど、サウナってもう充分広まっているんですよ。というのも、サウナブームになる前からサウナという空間がどんなものかはみんな認知していたじゃないですか。
トルコのハマムやロシアのバーニャなんかは一部の人にしか伝わらないですが、サウナは日本人みんなに通じる。それって相当すごいことだと思うんですよね。
だから僕は別にサウナを広めたいっていう思いはないんです。より多くの人に魅力を伝えたいとは思わない。既にサウナが好きな人に、もっともっとサウナが好きになってもらう活動がしたいんです。
つまり新規ユーザーの獲得ではなく、コアユーザーを増やす活動をしていきたいんです。
サウナはお客さんそれぞれの認識で作られる
また別の観点の話をすると、サウナっていうのはスペックがどうこうではなく、空間そのものがサウナなんです。
サウナ室のことをサウナだと思う人も多いでしょうが、それも適切ではなく、サウナは利用者のそれぞれの意識が作るものだと僕は考えています。
装置で室内を温めることはできるし、熱波で風を送ることもできます。でも、その空間をどう受け止めるかはお客さん自体なんです。お客さんの認識の仕方によって同じサウナでも熱波でもみんな違うんです。
そう考えていくと、サウナを利用していて「気持ちいいな」と感じたとしたら、それはそう認識できた自分自身の心を大切にするべきなんです。
フィンランドのサウナ観がまさにサウナという空間そのものを神聖なものと位置付けていますが、この考え方はすごく先進的で世界で類を見ないものだと思います。
ーー 日本の茶室と似ているんですかね?
そうですね、近いと思います。ただ、茶の道はしきたりを重んじて教養を求める方向へ行きましたが、フィンランドのサウナはそうならなかったですよね。
座り方だって何でもいいですし、全員を平等に受け入れる器量があります。まぁただ、これは良し悪しではなくあくまでそういう違いがあるというだけのことですが。
ーー 井上さんがサウナのことを考えるのはもはや習慣になっていると思いますが、水風呂や休憩についてはどう考えているんですか?
それでいえば、一時期「サウナは前菜で水風呂がメインディッシュ」みたいに言われたりしましたけど、僕はやっぱりサウナが一番だと思うんですよね。
極端に言えば、僕は水風呂は必須ではないと思っています。クールダウンができれば手段は何でもいいんですよ。
ただ日本は気候の問題で、水風呂がないと暑くて外気浴ではクールダウンできない時期もありますし、そもそも露天がない施設も多いです。
僕の中では浴室自体が超低温の湿度の高いサウナなんです。そこでは機能的に体を冷やせる設備として水風呂が必要だと考えますが、外気だけでクールダウンした方が体への負担は少ないですよ。
ーー 言われてみれば、涼しい時期であればクールダウンは時間経過で自然に出来ますが、体を温める行為というのは自然にはできないことですね。
そうなんです、温められる空間って尊いんですよ。フィンランドではサウナって温度自体は中温じゃないですか。ロウリュで体感温度を高めますけど、基本的には「温かいなぁ」と感じるくらいで。
フィンランドでサウナが文化として定着したのは、気候的に寒さが過酷だったことも背景にあると思うんです。
だからこそサウナで暖を取ってホッとすることが喜びであって、習慣化されたんじゃないかと僕は考えています。
そういう風に、そもそもサウナはリラックスするために入るべき場所で、本質的に「安らぎ」を備えているもののはずなんですよ。
だからちょっと、昨今の興奮を過剰に促すサウナの入り方っていうのはどうかなって疑問に思うところはありますね。
僕の熱波に期待するな。そもそもサウナに期待するな。
最近はありがたいことに僕の熱波を目当てにして来てくれるお客さんも多いですが、僕は彼らには「僕の熱波に期待するな」と伝えています。さらに言えば「そもそもサウナに期待するな」と思うんです。
僕は熱波を介して皆さんと一緒にサウナに入りに来ただけで、一緒に気持ちいい時間をすごしたいだけなんです。
それを聞いたお客さんはみんなポカーンとするんですよ。でもね、本当の感動ってあ然とするものなんです。
あ然とした後に、理由を見出して笑うとか泣くとかの感情を当てはめるのであって、すぐに感情が表れるっていうのは本当の意味での感動ではないと思います。
本当に感動している時はしばらく脳が情報を処理しきれずに理解不能状態になっているんです。
ーー 芸術家の岡本太郎が似たようなことを発言されていたのを思い出します。井上さんには裸の心で語り合いたい想いがあるのですね。
そういう一面はありますね。ただ一方で、心ではなく体との語り合いが必要な時もあります。
僕が熱波師検定で講師をして熱波の在り方を説いていると、「井上さんは心理学的なアプローチもされるんですね」とよく言われるんですが、それは間違いです。僕が熱波の心得として伝えていることは、心ではなく体の機能のことなんです。
例えば、「人の顔を見て適宜クールダウンさせるべきです」と僕が言うのには機能的な理屈があって、もし誰かの顔が赤くなっていたら顔の毛細血管に血液が集中している状態なんですよ。脳が高速で情報処理をしているとそうなるんです。
熱波師として活動する者は、心より体の機能を知ることが大前提だと僕は考えています。「倒れたらどうするか」ではないんです。「どうなると倒れるか」をまず知るべきなんです。それこそ倒れる人が出てしまったらもう遅いんですよ。
話はちょっと大きくなりますが、今後も日常が普通に続いていくものだってぼんやり思っている人が多いような気がするんですけど、それは平和ボケしすぎです。
日常って無慈悲に突然終わることもあるんですよ。お客さんも施設の人も、というかこの世に生きている人みんな常に危機感を持たなきゃいけないんです。
繰り返しますが、実際に何か起きてからでは遅いんです。
もっと目の前にいてくれるお客さんときちんと対峙しようよ
熱波をやっていると、どうしてもそれと近しいアウフグースのことも考えてしまいますが、他の熱波師やアウフギーサーたちの仕事ぶりを見ていると「もっと目の前にいてくれるお客さんときちんと対峙しようよ」と感じることがあります。
お客さんにはショーが目当てで来られる方もおられますが、本来的にはサウナに入って気持ちよくなりたくて来ているんです。気持ちいいからサウナに入るという方々の期待にも応えようと努めるべきではないかと思うのです。
少なくとも日本では、そのようにお客さんとの期待値をすり合わせてパフォーマンスしないとショーが空中分解してしまうと僕は思います。
ヨーロッパのアウフグースは、日常の温浴プログラムとして存在しており、そこからエンターテイメント性を高めて発展したものがアウフグースショーです。
本来はアウフグースショーのパフォーマンスは大規模サウナでしか出来ないです。そしてそれを可能とする大規模なサウナがヨーロッパにはたくさんあります。
だから、多くのヨーロッパのアウフギーサーにとっては日常プログラムの延長線上に大会があるんです。
でも日本にはヨーロッパと同じ規模のサウナってすごく限られているじゃないですか。スカイスパやウェルビーは別として、ほとんどの日本のアウフギーサーは日本の狭いサウナで日常プログラムをこなしています。
つまり、「日常と大会をきちんと切り分けて考えていますか?」と問いたいわけです。そしてさらに問いたいのは「何のために大会に出たいのですか?」「優勝してどうなりたいですか?」ということです。
ACJや熱波甲子園などの大会はどれもそうですが、受賞して得られるものは「自分自身の称号」でしょう。単に称号を得て自己満足感にひたりたいだけではいけません。
これは批判ではなく、「自己満足の先にある真の目的を見定めて、自分に負けずに精進して欲しい」というエールです。
(後編につづく)